昭和50年03月04日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此方の事を神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげの受けはじめである。皆んなもその通りにおかげを受けられるぞ。」

 一心に神様にお縋りをして色々とおかげを頂く。無い寿命を改めてどうにもでけない問題を解決する。様々な教えを頂いて又一心に縋りもしておかげを受けると言う事。おかげを受けた所から信心が進んで行く信心が解って来る。でないと理屈の上だけで解ったんでは本当の事ではない矢張りおかげを受けなければならない。持っておる自分の難儀と言う物から、お繰り合わせを頂かせて貰うてそしてこの十八節、所謂生神に向かう信心とでも申しますか。おかげを頂かれたら先ずはだからおかげを受けなきゃならない。
 昨日福岡から七、八年振りでお参りをして来た方があります。女の方ですけれども、非常に言わばやり手と言うんですか、非常に商売熱心な方で、色々の事をその当時やっておられましたが、中洲の所謂ど真ん中で水商売を始められた。水商売というのは割烹やら、飲み屋さんですとか、それが大変当たって、おかげ頂いておられるという話だけは聞いておったけれども。先月の月次祭の時だったか秋永先生が、その方が最近病気をしておるというお届けがあっとりました。
 本人も合楽にお届けして下さいと言う事であったから、お届けをして下さったが、その方が昨日ひょっこり参って見えた。やごうもここで頂かれました菱村というお店です。まぁ大変繁盛しておかげを頂いておりますけれども、なんと言うてもまぁ命在ってのものだね、体が少しまぁ体にこしょうを感ずる、ね、肝臓が悪い非常に酒豪家、一升位飲んでももう平気な、あの程にお酒が強い方でした、やっぱりあんまり飲みなさったからでしょうね肝臓がやられた。
 で昨日見えられてからお話ししとるのに、別に顔色が悪いわけでもないけれど、悪いらしんですけれども。不思議な事がそのあります。うめやさんにお願いをして貰うてした所が、おかげで病気の方はこうして御礼に出て来れる程おかげを頂いた。所がですねもう本当それを境の様に、商売の売り上げの方が半分になったという。此れはうめやさんどうした事じゃろかと言うて、電話をかけた。たら色々話をまあ聞かせて頂いた、とこう言う様な話を昨日しておりました。
 で、秋永先生がいうのは、ほりゃあんたない命ば頂いたっちゃから、少しは商売の方で差し引かにゃ日頃信心がでけとらんのだから、まぁそれは当然の事だと言う様な、まっ一つの理ですねそういう話をさして頂いた。確かにそういう働きがありますよ。所謂お祀り換えとか、ね、お繰り合わせと言う様な事でもやっぱそうです。ね、体の方はおかげを頂いた所がもう途端に商売の方が半減してしまった。商売熱心な方ですから、例えば体は悪かっても商売が繁盛した方がよかと言った様な商売熱心な方なんです。
 そこで信心が出来る健康そして商売もまた元に戻る、ね、そこからが信心なんです。ね、まぁそんなに極端でなくても皆さんも其処迄のおかげは解る、ね、此の神様はおかげを下さる為には、あらゆるその人その人のよって違いますけれども、あらゆる手段を使うて下さる。ね、どうでも無い寿命と言う時にはお祀り換え下さったり、又は他のものに祀り変えてでも、お願いを聞き届けて下さる。そこに初めて言うならば神様のおかげと言う物を、神様の働きと言う物を知る事が出来る。
 そこん所のおかげを頂いてから、ここの十八節を分からせて頂き、そして願う焦点が所謂生神の道を愈々進ませて頂こうという信心にならなきゃならない。そこでその生神の内容なんです。生神とはならどう言う様な内容の信心がなからなければならないか、お願いをするおかげを頂く、だから信心が続けられておる。それで例えば一生終わってもそれはそれだけの事である。心が生神への飛躍も遂げなければ、ね。
 変わっても行かない。私は昨日親教会の報徳祭におかげを頂いて、こっから私はお参りを致しました。そいでお祭りが済んでのお説教が御座いませんでした。ただ西原教会の案納さん方だったですかね、あんは納める、案内の案の字、のうというのは納めるという字を書いて、案納と読むんだそうです。以前もチョコチョコお話しは聞いておりましたけれども、始めてまぁ三十分位でしたけれども、自分のおかげを受けて来た体験発表をなさいました。もうおばあさんです。
 そいで私は大変感心致しました。まぁ今筑水地区あれだけのすっきりした信心を頂いておる者は、先ず居ないでしょう。合楽にも随分熱心な信者さんが沢山おりますけれども、熱心というのと本当の信心というのは違うんです。確かに西原教会の中に教会の中に生きた神様の働きがあっておる事をあの、一人のご信者さんを見ただけで解るです。成程やっぱりお徳が残るなと、初代桂先生の所で総代をなさったその方の娘さんが、今の西原教会の教会長です、おばあさんですけれど。
 ま色々批判の多い先生ですけれども、何か一途なものを持っておる、所謂生きた神様を現して行けれる内容にふさわしい、心の方である。だからああいう信者が又出けるんだと言う風に私は思うんです。ね、今日の今の、熊谷さんと言いますけれども、その菱村のおかみさんじゃないですけれど、ね、難儀な病気のおかげを頂いた、けれども途端に商売が半減した。どう言う事か、ちょっと分からない。けどもそれは、ね、言うならば無い命でも助けて貰おうという。
 信心もでけんのにとそれも七年振り、八年振りに神様の忘れてはおらん、ちゃんと天地書付をお祀りして部屋にはこう拝んでおられるらしいけれども、お参りはもうこちら私共移らせて頂いてまだ一辺も、参って来た事が無いというんですから、確か八年位なるだろうと思うんです。ね、そいでおかげを頂いてお願いをして貰ったら、早速おかげを体の上には頂いたけれども、そのお願いをして体が良くなると同時に商売が半分になったと。今迄かってない事である。
 だからうめやさん、此れはどう言う事じゃろうかと言う事、やっぱりその神様のせいだと言う風には思ってはおられるには違いない。けどもその理屈が解らん、ね。昨日案納さんの話の中にもありましたが、ね、何時もその話を親先生はなさいます。自分の父は小倉教会の初代の、総代を勤めさせて貰うて大きな茶碗問屋をしておったが、茶碗問屋がもう兎に角右と願えば左、左と願えば右と言う様に、ね。
 いよいよ不如意な事になってしまった。そこで有り金を集め家財産で金を造って最後のおかげを頂くべく、お取り次を頂いて、また桂先生がそうせよとも仰ったらしいのです。ですからその有り金を持って一週間ですかね、下関で米相場をなさった。そしてもうすってんてんに取られなさった。ね、それでいうならば親先生まかせにならせて頂いて、こう言う様な結果になるごたあるならば、もう金光様のご信心も此れまでだと心を決めて、その事をお届けされた。
 ならその事をお届けしょうというて、桂先生がご神前に出られて、ね、一緒にご祈念をなさっておられる時に、お広間のほうで拝んでおられる総代さんが神様のお知らせを頂いた。それは言わば今の家族中の者が、全部石塔になっておる、何の何がし何年何月に帰幽と言う風に、もうその言うならば一家全滅する様な事にもならなければならない事である事をお知らせになって悟られた。ね、ですからそういうおかげを頂く為には、例えば財産の方は神様が没収してしもうてある。
 そして命の方を助けて下さっておると言う事も、あの話しておられましたが、此れはまぁ有名な話です。ですから西原の教会の先生も、此れは一つ話しの様に繰り返し繰り返し、ま、話を聞かせて貰ったと言う事です。ね、此れなんかも今私が申します様にね、信心がない言うなら、其処に廻りと言う物を持って来て貰う、廻りが大きいもう一家断絶しなければならない様な廻りを持っておるから、その廻りのお取り祓いを下さる為にはです、廻りの取り払いを下さる。
 言うなら財産をもって、家倉財産をもって、廻りのお取り祓いを下さった。そして後に残らして貰う者の健康のと、振り変え祀り変えて下さった。そこからいうなら信心が続き、言わば娘や教会でも持たねばならんと言う様な、人が助かる程しの事にまでなって来ておると言う事になるのです。ね、言わば話は少し大きいと小さいですけれど、菱村のおかみさんのそれと同んなじ運命です。ね。
 そこでんなら神様の働きを解りらして貰い、只あの病気の時に治して貰う、困った時にそこに道を開いて頂くと言う事を、神様の働きと分からせて頂いたら、そこから、此方の事を神、神というが、此方ばかりが神ではないと、此処に参っておる人がみな神の氏子じゃと仰る、神の氏子としての自覚がでけ無ければいけない。人間は。人間は神様の氏子だと、だからその神の氏子としての値打ちを愈々発揮して行く為の信心がなされなければならない。ね、それに例えばね人間と云えば言うならば、ね。
 人間の面しとるだけであって内容は、ね、浅ましい心の状態では、いけない事が解からして貰う手、自分の心から愈々、ね、神に相応しくない、生神になる為に相応しくない心の状態をです、言うなら改め磨かして貰って、精進させて頂かなければならないと言う事でありま巣。ね、書画此処までのおかげは頂きますけれども、その精進の所において非常に垢抜けしてないと言う事が言えます。
 そういう意味で案納さんの場合は、非常に垢抜けしておるなと思った。ね。もうあの神様をある意味で信じ切っておられるという言葉が所々出る。例えば病気なんかした時に、もう薬やら医者なんかもう、毛頭思いも考えもしないという様な事を言っておられますね。勿論薬のくの字もそう言う時に思わない、病気をしても神様のおかげを頂かなければという、言わば信念です。ね。
 そこで私はその案納さんに感じ一番感じたと言う事はです、いうならば自分でも次々と家庭的な難儀やら、体の事やらで難儀を感ずるそこにご兄弟の方が、兎に角一辺金光様にお参りをして見れというて、お参りをされた。もうそれこそ自殺もしかねない位に、悩み苦しんでおった。そして始めて御教えを受けた時にです、此の御教えによって、自分は助かる事が出来るかもしれんと、ほのぼのと心が明るくなって来た。
 もう死のうかとまで思うておったその心の状態がです、ね、何か知らん心の中から明るいものが、言うなら付いたものが落ちた様な心の状態で帰らして貰った。それからは、しげしげとお参りをする、お話しを頂くと言う事に成って来た。そして案納さんが体得されたものは何かというと、言わば御用をすると言う事であった。その御用のしぶりが、ただ御用をすりゃ助かると言った様なけちなものではなくてです。もう御用が芯になってしまわれたと言う所に、案納さんの信心が素晴らしいと思うんです。ね。
 お話しを聞くと、あちらのお広前が建立される時には、その殆ど中心になられた方らしい。もうそうですねやんがて七十位なられるんじゃないでしょうか。見た所。それにまぁ、十四、五年あまりの信心とかと言う風に言っておられましたから、まっ五十時代からの信心でしょう。そしてようもあそこまで、一つの思い込みというか、信心がでけられたもんだと、こりゃやっぱり生きた神様の働きを、ね、受けておられる。御縁を頂いておられる西原教会の生きた神様の働きに触れておられなければ出ける事ではない。
 生活は子供達が見てくれるちゅんです、だから自分の働きの全ては、ね、御用させて貰うというんです。自分は何もでけんけれども、仕立て物が出来るだからその毎日、その仕立て物がその気にならせて頂いたら、どこから集まって来るか解らん程、仕事の切れ間がない程しにおかげを頂いて居る、だからその全てがお供えだというのです。ね、此れならおかげを頂かんはずは無い、御用すれば助かると言う様な、例えば一万円儲かって千円ばっかりお供えすると言った様なもんじゃ無いんです。ね。
 まその点に恵まれておられる、恵まれておられると言うか、その気にならせて頂いたら他所に出ておる子供からお金を仕送りして来る様になった。子供達がね信心をするなら小使いも要ろうからと言うて金もくれる様になった。生活は子供が見てくれる。そういう例えば金にはその生活の事には困らんで済む様な働きを受けておられると言う事もです、そういうすっきりとした、ね。
 言うならば水を手前に引こう、自分の事へ水を引こうじゃなくて、向こうへ押す気になられたら、返って来るものが多くなったというおかげの中にです、その御用精神がふるになって来た訳です。こりゃまだ合楽にこれだけ沢山の、言うならば垢抜けした御用のでける方もあります。沢山のお供えがでける方もあります。けれどもねその案納さんの様なすっきりとした、御用の出来る人は一人も居りません。おそらく合楽だけじゃありません。言わば今なら九州と言うても良いかもしれません。ね。
 自分の働き、もう自分の事は神様に任せ切ってしまってある。そりゃね息子達が見てくれるから、そういう働きもそういう心から、そういう信心から生まれて来てるんです。ね、自分の働きの全てが当時はご造営費に当てた、現在はそれが全部献納と言う事になった。もう此れが天地に対する還元になるらないはずはないと思うですね。真似しようとして出来るこつじゃ無いです。しかし根本精神がです、そこに、置かれておるという所が、私共は見習わなければならない素晴らしいとこだと思います。ね、
 あの、生神への、生神の内容というのは、そういう潔さと言う物がいるんです。ね、それこそ止むに止まれん、ご造営の話が始まった、神様のお繰り合わせをお願いをして、私の体で生まれてくる一切を神様へ捧げますという、潔さと言う物がです、だんだん垢抜けして来て今日の案納さんがあると思うです。だから生神への私は道というのはそうい潔さが無からなきゃならない事です。そして此れにですいま合楽で言われておる、言わば愈々心の玉を磨くとか、ね。
 日々の改まりが第一とか、所謂成り行きを大切にして行くと言う様な生き方の中には、改まらなければ出ける事ではない、磨かなければそのまま受けられないと言う事なのです。だから案納さんのあの信心にです、なら合楽で言われておる、あの自分の心の状態、を教えに基づいて改めていく、本気で例えば成り行き、そのもの言うなら神様の御働きそのものを、合掌して受けて行こうという生き方になったら、私は間違いなしに生き神への道を邁進して行く事がでけると思います。ね、
 合楽ではその点は段々、皆さんがでけて来られた。けれどもその潔いとまで思われる、言うならば御用精神と言う物が、もう実にまあ案納さんの信心からいうと、お粗末だと言う事です。料とか金額とかという面においては、ね、それは垢抜け、合楽の方達のほうが垢抜けしてますよ。所が根本それはね、例えば一千万儲かったから、百万円お供えするというとじゃもん、合楽の場合は、だからね、百万もお供えするちゃ大したごつのごとあるけれどもです、一千万円儲かったから出来るんじゃない。
 所が案納さんの場合なんか、もし此処に一千万円、思いもかけぬ儲かりがあったならば、それからねちっとばっかり自分が貰うちから、後の残りをお供えすると言った様なもんじゃないです。一千万円儲かったら、一千万円そのままお供えをするという生き方なんです。その辺のスッキリしておる事に私は、まぁ案納さんの右に出る者は、今なら筑水地区ではだーれもおるまいと思います。ね。
 その素晴らしい潔い信心と、いま合楽で言われておる、言うなら神様の御働きそのものを粗末にしない生き方と、そう言う物が内容になって始めて生神を、言うならば現す発揮して行く事が出来ると言う風に思います。此れはしかし本当と贈り合わせ頂かなきゃでけんですよね。そりゃもう神様に皆お供えしもうとりゃよかばってん自分の口ゃどうなるかと、生活が掛かって居るからと、先ずそれを考えるです。それを考えん位にやっぱ、一途な打ち込み方が、案納さんでけておると言う事。
 振り返って私自身の事を思うて見てもです、私共はそれが本当にでけて来たと思うです。それにいうなら神様の御働きである所の成り行きそのものを、愈々合掌して受けてきたんですから、もうほんとに生神の道を真っ直ぐ進んできたように自分で思います。そこでです、そこでなら自分がなら御用さして貰おうとか、ね、お供えさして頂くという内容をです何時の場合でも、もっともっと厳密に検討しなければいけないと言う事です。ね、此れはね例えて言うと。
 もその自分の体で頂けたそのものを全部そのままお供えすると言った様な、その潔い心にはです、ね、言うなら水を全部向こうへ押してしまおうというのですから、ね、そこには不思議な不思議な働きが起こってです、ね、自分は神様へ神様へと押して行きよるけれども、そん位な事ではない、自分が潤うて来る、恵まれてくる働きを、ね、段々感じるけいこをしなければいけません。ね、 いままで十万円のお供えが出来よった人は、二十万円にして見るのです段々、三十万円にして見る、ね。
 そしてそこんところいうならば、石橋を渡る様な信心ですけれどもね、そこから私は還元、天地へ対する還元の有り難さと言った様な物が、いわゆる有り難いと言う事が解らして貰う信心。御用おかげ頂かんなんから御用すると言った様なものではなくて、その御用そのものが、有り難いと分からして頂く信心、それがあかぬけして来る、それに成り行きを愈々大事にさして貰うと言う様な生き方。私は生神への道というか、生神の内容はそういう事だと思います。
 昨日私はその案納さんのお話しを聞きながら、感心した。ね。その事を今日は聞いて頂きました。ね、だからそういうおかげを頂くとにゃまず、神様の働きを先ずは言うならば、無い命も助けて貰うどうにも出来ない、もう人間業ではどうにも出来ないと言う様な難儀な問題をです、矢張り解決のおかげをい頂きね、おかげを受けさせて貰うて神様の働きが解ったところから。
 本当な信心が実になって行く人、ただおかげ信心で終わって行く人と言う風になりますので、ね。合楽で御神縁を頂いた皆さんの場合は、只その所に腰掛けるおかげ信心に留まらずにです、言うならば愈々生神への道を辿らしてもらおうと言う位な信心意欲を持って、神様の働きを間違いないものと、まず頂いてそれを基礎として、土台としてです、生神への信心を打ちたて行かなければならないと思います。
   どうぞ。